山形県の部品製造・加工における歴史と将来性を解説!

2021年02月22日(月)

山形県の部品製造・加工における歴史と将来性を解説!

山形県といえばさくらんぼや山形牛、名峰である蔵王を思い浮かべる方も多いかと思います。しかし、山形県の強みは農産品や観光だけではありません。部品やネジの製造・加工をはじめとしたものづくりも盛んな地域です。その歴史は950年前までさかのぼり、現在でも多くの有名企業や将来性がある企業が山形県を拠点に活躍しています。

この記事ではネジや部品の製造・加工をはじめとした山形県のものづくりの歴史や企業が山形県に進出している理由をご紹介します。

現在も盛んな山形県の製造業

経済産業省の『平成30年工業統計調査』によると、山形県の製造品出荷額は28.987億円で、東北地方では4番目となります。金額自体はそれほど大きいものではありませんが、同省が発表した「2020年はばたく中小企業・小規模事業者300社」には山形県内から3社が選出されました。時計メーカーであるカシオや曙ブレーキなど、有名企業が山形県を拠点として活躍しています。

山形県に進出した企業の経営者は、良い人材が確保できた、生産性が向上したということで、一様に満足しています。

部品製造に強みがある!

前述の工業統計の「主要製造品出荷額」を見てみるとパーソナルコンピュータが最も出荷額が高い結果になっていますが、自動車部品や電子部品、コネクタ、スイッチ、リレーといった部品類も高い割合を占めています。
このことからも、山形県では特にネジや部品などの製造・加工が盛んであることがわかります。

今も系譜される山形県部品製造の歴史

それではなぜ山形県で部品をはじめとしたものづくりが盛んになったのでしょうか?その歴史を紐解いていきましょう。
とりわけ部品製造に関しては昭和20年以降に急成長を遂げてきましたので、そのプロセスについてもご紹介します。

ルーツは950年前の平安時代

山形県でのものづくりの歴史は平安時代である950年前までさかのぼります。当時、山形を訪れていた源頼義についていた鋳物師が型に使う土を探していたところ、馬見ヶ崎川周辺の砂や土壌に惚れ込み、山形の地に残りました。それから鋳物づくりが盛んとなり、今でも山形県で造られた鋳物は「山形鋳物」として人気を博しています。

江戸時代になると初代山形藩主である最上義光が山形城を改築すると同時に城下町を再編。職人町がつくられ、職人たちは諸役や人足を免除するなど優遇政策を行なったため、ものづくりが更に盛んになりました。鋳物はもちろん打刃物、織物などの製造も行われるようになったのです。

江戸中期になると米沢藩主である上杉鷹山が殖産興業を目的として桑の木の栽培、養蚕、絹織を奨励しました。そのため織物工業も発展し、山形県におけるメインの産業となりました。
やはり織物に関しても「米沢織物」として確固たる地位を築いています。

さらに、江戸後期には成島焼や平泉焼などの窯業も行われるようになり、鉢や茶碗などの焼物が数多く造られるようになりました。

ミシン製造による産業構造の変革

明治時代になると電気などのインフラが整備され、外国からミシンなどの技術も入ってきて、山形県内においても産業の近代化が進みました。特にそれが著しいのが繊維工業。明治10年には三島県令によって県勧業課製糸工場が設立されました。また、大正2年には米沢高等工業学校の教授である秦逸三が人口絹糸(レーヨン)の製造に成功しました。これまで山形県のものづくりは家内工業が中心でしたが、一気に大量生産の道を歩むことになります。

第二次世界大戦がはじまると山形県内の民需工場も軍需工場に転換を余儀なくされ、航空機のプロペラや発動機部品の製造を行うことになりました。また、戦争被害が著しい東京から山形県内に工場が移転され、電解コンデンサなどの製造が行われるようになりました。

企業誘致や時流による製造の転換

終戦後は軍需工場がもとの民需工場に戻り、疎開してきた東京の企業の工場がそのまま山形県内に残ることで産業が急速に発展。織機、ミシン、医療機器、農機具など、さまざまな工業製品が造られるようになりました。

やがて日本は高度経済成長期を迎え、経済は発展しましたが都心の人口集中や土地不足、公害などの問題が発生し、企業が地方に工場を分散する動きが加速。山形県でも企業誘致を強化し、電子関係の企業が拠点を置くようになったのです。

イノベーションによる加工組立型企業の成長

電子機器の製造が盛んになった山形県。平成になるとさらに多くの企業が山形県に進出し、大手だけでなく部品を製造する中小企業も集まりました。インターネットが普及し、スマホやパソコンを誰もが持つ時代が到来し、さまざまなイノベーションが興りました。電子機器やデバイスは部品の塊。1台の端末を造るためには数多くの部品が必要となります。

コンピュータや情報通信機器の製造が盛んになった山形県で部品を製造・加工する企業が多いのは必然と言えます。

なぜ山形県は企業に選ばれるのか?

それではなぜ山形県は多くの企業が進出してものづくり大国になったのでしょうか?
その理由には以下の4つが挙げられます。それぞれ詳しく見ていきましょう。

伝統的なものづくり基盤

前述のとおり、山形県では950年以上前からものづくりが行われてきました。時代は変遷し、生産品も大きく変わりましたが、だからこそ時流に対応できるものづくりの強固な地盤が築き上げられてきたのです。

山形県独自の産業施策

かつての山形藩、米沢藩、そして山形県。いずれも職人あるいは企業を大切にし、ものづくりで地域経済を発展させる政策を行なってきました。行政のバックアップも山形県内の製造業の発展に大きく寄与したと考えられます。

教育・研究機関や県民性

山形県には山形大学、慶應義塾大学先端生命科学研究所、山形県工業技術センターなど、さまざまな教育・研究機関があり、高度な技術と知識をもつ人材が育成できる環境が整っています。また、古くからものづくりで身を立ててきた地域で育まれてきた、粘り強く真面目な県民性も製造業の発展に貢献しています。

高い交通利便性

山形県には山形空港があり、山形新幹線や山形自動車道が通っていて、全国からのアクセスも良好です。県内で製造した製品や部品を輸送しやすい環境が整っているため、企業が進出しやすいエリアだと言えます。

山形県の製造業を促進させる考え方「Y+m」とビジョン

山形県では今「Y+m」という新しいビジョンが掲げられています。Yは「Yamagata(山形)」と「Young(若者)」、mは「maker(製造業)」と「master(達人)」。柔軟な発想ができる若者と熟練した技術者や経営者がタッグを組むことで、山形県内で新しい可能性が生まれ、製造業がもっと発展するようにという想いを込めて命名されました。

山形県では産業人材の育成(U・Iターンの促進や多様な人材の活用と雇用の受け皿創出)、スタートアップや起業のバックアップ、労働者の処遇改善、ものづくり産業の競争力強化など、さまざまなビジョンを掲げています。今後県内でさらなる製造業の成長が期待されています。

950年前を起源とする部品製造・加工技術

鋳物からはじまり今ではコンピュータというように形は変わりましたが、山形県では平安時代からものづくりが脈々と受け継がれ、さまざまな製品が世に生み出されていったのです。

山形県のものづくりの中核を担うのがネジや部品の製造・加工であり、それを創業以来80年にわたって支えてきたのが株式会社フカサワです。豊富な経験と知識で、県内に新しく進出した数々の企業さまのお手伝いもしてまいりました。山形県内のネジ・部品の調達は、私たちにお任せください。

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